348935 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

聖歌は生歌

聖歌は生歌

年間第7主日

《A年・C年》
  93 心を尽くして神をたたえ
【解説】
 冒頭、個人の感謝から始まる詩編103は、その美的表現、豊かな思想から、旧約の「テ・デウム」(⇒「賛美の賛
歌」)と呼ばれています。全体は大きく3つの部分に分けられます。第一の部分は1-7節で、ここでは神による赦し、
いやしが述べられます。続いて、それを動機として、8-19節では神のいつくしみをたたえ、最後にすべての被造物
に神を賛美するように呼びかけます。神がシナイ山でモーセにご自分を顕現されたとき、神ご自身「主、主、憐れみ
深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す」(出エジ
プト34:6-7)と宣言されたように、恵みといつくしみとは神の属性であり、神との関係が修復されるときは、まず、
神のほうから許しを与えてくださるのです。
 答唱句は、前半、後半ともに、旋律が主に音階の順次進行によって上行します。「心を尽くして」と「すべてのめぐみ
を」が、付点四分音符+十六分音符のリズムで強調されています。さらにこのどちらも、旋律の音が同じばかりでな
く、和音も位置が違うものの、どちらも四の和音で統一されています。「かみをたたえ」は、「かみ」の旋律で、前半の
最高音C(ド)が用いられ、祈りが高められ、バスでは「かみをたたえ」が全体での最低音F(ファ)で深められていま
す。また、この部分はソプラノとバスの音の開きも大きくなっています。なお、「たたえ」は、バスでFis(ファ♯)があり
ますが、ここで、ドッペルドミナント(五の五)から、一時的に属調のG-Dur(ト長調)に転調して、ことばを強調していま
す。後半の「こころにとめよう」は、旋律が全体の最高音D(レ)によって、この思いが高められています。
 詩編唱は、最初が、答唱句の最後のC(ド)より3度低いA(ラ)で始まり、階段を一段づつ降りるように、一音一音下
降し、答唱句の最初のC(ド)より今度は3度高いE(ミ)で終わっていて、丁度、二小節目と三小節目を境としてシンメ
トリー(対称)となっています。
【祈りの注意】
 早さの指定は四分音符=69くらいとなっていますが、これは、終止の部分の早さと考えたほうがよいでしょう。こ
とばと、旋律の上行形から、もう少し早めに歌いだし、「心を尽くして」と「すべてのめぐみを」に、力点を持ってゆくよう
にしたいものです。決して、疲れて階段を上がるような歌い方になってはいけません。この答唱句の原点は、イエスも
最も重要な掟と述べられた(マタイ22:34-40他並行箇所)、申命記6:5「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽
くして、あなたの神、主を愛しなさい」によっていることを思い起こしましょう。「すべての恵み」で、何を思うでしょうか。
わたしたちが神からいただいている恵みは はかりしれません。毎日の衣食住、ミサに来れること、友人との語らい、
家族団らんなど、さまざまな物事があるでしょう。わたしが、この世の中に生まれてきたことも大きな恵みです。、しか
しこの「すべての恵み」を、端的に言い表しているのは、「主の祈り」ではないでしょうか。「主の祈り」のそれぞれの祈
願こそ、神が与えてくださる最も崇高で、最も大切な恵みではないかと思います。これらのことを集約した祈りである
この答唱句を、この呼びかけ、信仰告白にふさわしいことばとして歌いましょう。二回ある上行形は、やはり、だんだ
んと cresc. してゆきたいものですが、いつも、述べているように、決して乱暴にならないように。また、音が上がるに
従って、広がりをもった声になるようにしてください。一番高い音、「かみをたたえ」、「心にとめよう」は、丁度、棚の上
に、背伸びをしながらそっと、音を立てないで瓶を置くような感じで、上の方から声を出すようにします。「かみをたた
え」でバスを歌う方は、全員の祈りが深まるように、是非、深い声で、共同体の祈りを支えてください。この恵みの頂
点は、やはり、パウロが『コリントの信徒への手紙』で述べている、「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたち
の罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと」(1コリント15:3-
4)=受難と復活、そして、その前の晩に弟子たちとともに過ごされた、最後の晩さんの記念=ミサであることは言う
までもありません。ミサにおいて、この答唱句を歌うことこそ、この答唱句の本来のあり方なのです。「すべての恵み」
でテノールが、その最高音C(ド)になりますが、これが全体の祈りを高めていますから、それをよく表すようにしてくだ
さい。最後の rit. は、最終回の答唱句を除いて、それほど大きくないほうがよいかもしれません。最終回の答唱句
は、むしろ、たっぷり rit. すると、この呼びかけに力強さが増すのではないでしょうか。
〔A年〕
 第一朗読のレビ記で言われている「聖なる者」と、福音朗読で語られる「完全な者」は、ある意味で、同じことを意味
していると言ってもよいでしょう。イスラエルの民の中で、兄弟を憎んだり、復讐してはならないのは、主である神を信
じる兄弟姉妹だからです。イエスはそれをさらに敷衍して、人類すべてが、父である神から愛されているが故に、敵
を愛し、迫害する者のために祈るようにと言われたのでしょう。父である神は、ご自分とそのひとり子を信じる人々だ
けではなく、信じない人のためにも、限りない愛を注いでおられるのです。詩編の祈りは、1=父によって救われた人
が、2=その恵みとあわれみを思い、3=すべての人に救いを呼びかける、黙想を促します。この、すべての被造物への
限りない愛を黙想しながら、こころを尽くして神をたたえ、すべての恵みをこころにとめたいものです。
〔C年〕
 この日の第一朗読はサウルに追われたダビデが、サウルの陣営に忍び込んだにも関わらず、サウルのいのちを奪
うことなく、槍と水差しを持ち帰ったことが読まれます。槍は勇者にとってはいのちと同じくらい大事な武器ですから、
それを、眠っている間に取られたということは、まさに、死んでも死に切れない屈辱であったと思います。また、中東で
は水も貴重で、生命の源ともいえるものですから、水差しを撮られたことも同じことではないでしょうか?ダビデは、サ
ウルのいのちを奪えたにも関わらず、神が油注がれたもののいのちを取ることを良しとしなかったのです。
 福音でも、キリストは「あなたがたは、自分の量る秤で量り返される」(ルカ6:38)とおっしゃっています。第一朗読
との関係で言えば、ダビデも確かに、自分がバト・シェバとの姦通の罪を犯し、バト・シェバの夫、ウリヤを殺させたに
も関わらず、バト・シェバとの最初の子は死んだにも関わらず、自らのいのちが奪われなかったのは、サウルのいの
ちを助けたことが関係しているのかもしれません。もちろん、このことは、神さましかご存じないことではありますが。
【オルガン】
 前奏では、上行音階を活き活きとさせましょう。ここが、だらだらしていると、会衆の答唱句も、ずるずるとしてしまい
ます。また、「つくして」、「めぐみを」の付点八分音符+十六分音符は、やや、鋭くしたほうがよいかもしれません。ス
トップは、やはり、明るめのものがよいでしょう。基本的には8’+4’でよいと思いますが、会衆の人数によっては、
2’を入れてもよいでしょうし、最後の答唱句だけ、2’を加えることも考えられます。オルガンの伴奏も、一番大切なこ
とは、いただいた恵みを思い、「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして」神に賛美と感謝をささげること、すなわち、オル
ガン奉仕者が、奉仕の賜物として、その恵みを与えられたことを、心から神に感謝することでしょう。

《B年》
 67 神はわたしを救われる
【解説】
 詩編41は、詩編集の第一巻(詩編1~41)の終わりに位置します。本文の最初は、詩編1と同じく「アシュレー=
幸いだ」から始まります。また、最後の14節は、そのために地けられた「栄唱」です。
 病の床に伏す作者は、詩編31と同じく、敵ばかりか親しい友にまで中傷されます(5-10節)が、確固とした信頼
をもちながら、神に病気の回復を祈ります(11-13節)。これらの詩編(41および31)は、いずれも、キリストの受難
(ユダヤ教指導者やローマの官警の中傷、弟子たちの離散)における嘆きに結びつくものでしょう。
 この詩編の作者は、イスラエルの王の一人とする説があり、ヘブライ語の語法から、ダビデの時代にまでさかのぼ
るとも言われています。
 答唱句は、珍しくテージス(一泊目=小節線の後ろ)から始まります。旋律の音は、G(ソ)、A(ラ)、C(ド)の三つ
の音で、その他の声部の音も大変少ない音で構成されています。文末以外は、ほとんどが八分音符で、「すくわれ
る」と「たたえよう」で四分音符が用いられて、ことばが強調されています。とりわけ「たたえよう」では、アルトのAs(ラ
♭)とテノールの最高音E(ミ)で、信仰告白のことばが高められています。さらに、テノールは冒頭から「いつくしみ」
までC(ド)が持続して、神への信頼と救いの確信が表されています。
 詩編唱は、3小節目でバスに臨時記号が使われ(Fis=ファ♯)、緊張感が高められますが、4小節目は五の和音
で終止し、旋律も答唱句の冒頭と同じ音になり、落ち着いて終わります。
【祈りの注意】
 冒頭は、指定の速度の、四分音符=72よりやや早めで始めるとよいでしょう。八分音符が連続しますので、メトロ
ノームで計ったように歌うと、歌はもちろん祈りになりません。変なたとえかもしれませんが、ところてんを作る道具
で、最初に、一気に押し出すような、そんな感じではじめるとよいでしょう。2小節目の「救われる」でやや rit. します
ので、「わたしを」くらいから、わからない程度にゆっくりし始めます。「その」のバスが八分音符一拍早く始まるところ
で、テンポを元に戻します。最後の「いつくしみを」から、再びわからないように rit. して、最後はていねいに終わりま
す。最後の「たたえよう」は、こころから神をたたえて、祈りを神のもとに挙げるようにしたいものです。
 この答唱句は、「神はわたしを救われる」と現在形になっています。神の救いのわざ(仕事)は、かつて行われて終
わってしまったのでもなく、いずれ行われるのでそれまで待たなければならないものでもありません。神の救いのわ
ざは、今も、いつも、継続して行われています。その、顕著なものが、やはりミサではないでしょうか。ミサは、キリスト
の生涯の出来事を思い起こす福音朗読と、その救いの頂点である主の過越=受難-復活-昇天を記念=を、その
ときその場に現在化するものです。このミサが、世界のどこかで、必ず継続して行われている。それを、この答唱詩
編は思い起こさせてくれます。そのことを思い起こしながらこの答唱句を歌うことが、祈りを深め、ことばを生かすこと
になると思います。
 イスラエルも含め古代文明では、病気はその人や、親・先祖の罪の結果と考えられてきました(現在でも、そういっ
て、法外な値段でつぼを売りつけたり、多額の寄付を強要する集団があります。注意しましょう。)。キリストの過越
は、これを払拭するものですが、それは、第一朗読にあるように、神ご自身が「わたし自身のために、あなたの背きの
罪をぬぐい、あなたの罪を思い出さないことにする」からです(イザヤ43:25)。キリストによる、病気のいやしは、こ
れらの実現と考えられるでしょうか。
 詩編唱は、この、キリストによる病のいやしをこころに刻んで語りかけましょう。特に、詩編唱の3節は、イザヤの預
言でも予型として語られるように(24b)、キリストの過越を思い起こしながら歌いましょう。この、詩編唱の3節は、後
半が特にことば数も多いので、早めに歌います。4小節目はどうしても息継ぎが必要なら、楽譜の段が変わるところ
で息継ぎをします。
 これらの預言、そして預言の実現である、キリストの過越を述べ伝えることがなぜ大切なのでしょう。それは、イザ
ヤが預言している「彼らはわたしの栄誉を語らなければならない」ことだからです。
【オルガン】
 前奏のとり方が、答唱句を生かすか殺すかの分かれ目となります。単調にのっぺらぼうのように弾かないこと、ま
た、ソプラノの音はしっかりと刻み、一つひとつのことばを生かすとともに、全体の祈りの流れをも深めるようなものとし
ましょう。ストップはフルート系の8’+4’(ないし+2’)で、明るいストップを用いるとよいでしょうか。とは言え、派手
になり過ぎないように気をつけてください。音の動きが少ない分、単調になると、ことばも生かされず、祈りも深まりま
せん。音の変わり目、特に、バスの音の変わるところが、キーポイントとなるでしょう。



© Rakuten Group, Inc.